ベトナム戦争とは、1960年から1975年4月頃までの15年間に渡りベトナムを 南北に
分断しての南ベトナム軍と北ベトナム軍との武力衝突です。
しかしながら、諸外国の目から見たベトナム戦争は、北ベトナム軍(ホー・チ・ミン指導者)を
支援する当時のソ連と中国に対し、南ベトナム軍(ゴ・ジェン・ディム政権)を支援する
アメリカと他同盟国との代理戦争と言える領土に関係ない政略的な意味あいの戦争でした。
大義名分は南北ベトナム政権争いに見せ掛けただけであって、領土や民族・宗教等とは
掛け離れ、アメリカとソ連の意地の張り合と思えるような戦争だった気がします。
当時のアメリカは、ソ連の支援を受けて社会主義国家に変貌しようとしたベトナムを、アメリカ
主導の民主主義東南アジア安定構築においてベトナムの共産化を見過ごす訳には行かないと
南ベトナムを支援して民主化した南ベトナムを支援したのだと思います。
アメリカでの キューバ危機以来、東南アジアにおいてもこれ以上のソ連の台頭を認める訳には
行かないと、当時のケネディ政権より南ベトナム(ゴ・ジェン・ディム政権)への軍事援助から始まり、
ついにはアメリカ軍本隊の投入へと突き進み、終わりの見えない泥沼化した戦争となりました。
そしてジョンソン、ニクソン大統領と関与し資料によると当時の金額で50兆円以上の 巨費と50
万人以上の兵員を送り込み、アメリカの威信をかけて挑んだ戦争でした。
当時の平和外交路線を取ったケネディ大統領の思惑とは裏腹にアメリカの巨大な闇の力に翻弄
され、ついにはケネディ大統領暗殺にまで至り、ベトナムの地に深く介入して行きました。
和平外交のケネディ大統領暗殺に発展したのもアメリカ裏社会の世界戦略的構想において
国益優先の中で犠牲になったのではないかと真実は分かりませんがその様な話も流れたのも
記憶に残っています。
その時のスナイパーとして逮捕された犯人が暴漢によって殺害、そのまた暴漢も拘留中に死亡と
誰が見てもあまりにも出来過ぎの偶然であり、口封じに陰の力が動いたとしか思えませんでした。
政府の裏側で巨大な力がうごめいてるのではないかと囁かれ、後に映画や小説の題材にもなりました。
数百メートルの距離から動いてる標的の頭を撃ち抜く犯人としては、あまりにも華奢で不釣合いの
人物でした。
そして捜査資料では複数方向でないと説明のつかない銃弾の痕跡が見られるのに単独犯として
処理し特別委員会報告を持って事件の終結となりました。
報告書の内容と言えば事件の真相とはほど遠い内容で、真相はいまだに闇のままです。
その捜査資料は50年後の2039年に公開をするらしいです。
つまり、事件に関わったすべての人物がこの世に存在しなくなった時が50年後らしい。
目撃者も数十人ほどいたらしいが、重要な目撃者の殆どが、わずか4年の間に事故や病気・自殺等の
理由で偶然にも亡くなられています。
これは、統計学的数値から見てこの人達が4年の間に偶然に死ぬ確率は天文学的な確率と言われ、
返せば偶然ではないと言う事に行きついてしまいます。
2004年時点であと35年後に公開ではあるが私には多分知る事は出来ないかも知れません。
これを読んだ若い方には是非真相を確かめて下さい。
ベトナム戦争に戻ります・・・・
15年に及ぶ戦争の結末は、ソ連・中国が支援した北ベトナム軍の勝利に終わりました。
ベトナムから撤退を余儀なくされ、ニュース映像などで現在の統一会堂の屋上より取る物も取らず
ヘリコプターに我先に乗るアメリカ軍関係者の慌てぶりが今でも脳裏に残ってます。
この戦争において、アメリカからの経済援助と引き替えに韓国・タイ・オーストラリア等他数カ国
からも軍隊が派遣されました。
これは、イラクへのアメリカの軍事介入においてアメリカの圧力に負け、日本も国益のために
自衛隊を送り込んだ姿と似ているかもしれません。
但し、人道復興援助の名目と戦闘参戦の違いはありました。
当時の日本は国内にあるアメリカ軍関係基地の提供と巨額の金銭供与だけでした。
この戦争の犠牲者は、資料によるとアメリカ軍6万人余りと、ベトナム国民においては200万
近い人が戦争の犠牲になったといわれています。
戦闘はベトコンと言われるベトナム民族解放戦線兵士のジャングルを利用したゲリラ作戦は、
映画の題材になるほどすざましいものでした。
そんなベトコンに対して豪を煮やしたアメリカ軍は火力の強い ナパーム弾そしてジャングルを
野原にしてしまう枯葉剤まで使用しました。
その薬剤の影響でいまだに住人に遺伝子レベルの後遺症として残り、出生奇形児などの問題が
残ってるのも事実です。
もちろん、戦闘地域にいたアメリカ兵に至っても今でも身体に影響が残ってると言われてます。
この戦争で奇しくも色々な爆弾や爆薬が開発され一段と強力な破壊力を持つ武器の開発にも
拍車が掛かり、世界中の軍需産業が皮肉にも盛んになった結果をもたらしました。
この戦争の特徴は過去の戦争形態とは全く違った虫食いのような戦闘で、南北ベトナム軍同士の
戦争と言われてましたがハッキリした戦闘の境目がなかった事です。
北緯17度線上に一応は南北の軍事境界DMZ(非武装地帯)として南北境界線が設けられましたが、
それは単なる地図上の線で過ぎなかった事です。
アメリカ軍は制空権を駆使して北の奥深く現在の首都ハノイまでB52爆撃機で空爆を繰り返しました。
一方解放軍は北部南部問わずベトナム地域の至るところに存在し、時には農民に時にはベトコン
に変身し散発的な戦いに挑んだようです。
近代兵器を使うアメリカ軍に対し正面切っての対戦は勝ち目のない事は誰の目にも明らかでした。
そのため世界中の目も、そしてアメリカ当事国も短期間で終結する計算でのベトナム侵攻と軽く
考えていたように思われてました。
しかし現実には、地の利(ジャングルや湿地)を生かしたゲリラ的戦法、持ち前の国民性である
忍耐力と敵国の武器を造り換える手先の器用さ、そして小柄な体型を利用したトンネル戦法
(クチの地下トンネル等)の昔ながらの戦法を用い、全てにおいて最新鋭武器とは掛け離れた
戦法に徹しました。
近代兵器に頼る兵士には想像もつかない旧式の戦法や罠のために、予備知識に欠けた兵士が
思いもよらない攻撃で命を落としたり負傷したりと困難を強いられたようです。
敵を待ち伏せ、短時間の攻撃を仕掛けさっと引き上げ、次ぎの場所に移動するといった
戦法を使ったために、ベトコンの脅威はアメリカ兵にとって絶えずつきまとったようです。
極め付きは、夜になるとクチの地下トンネルからサイゴン川の川底より浮上し船でサイゴン市内
まで戦闘に出掛けたり、トンネルを掘ってアメリカ 軍領内の直ぐ足元にまで忍び寄り決死の
情報収集活動をし、事前にアメリカ軍の動きを探って先手を打ったとも言われています。
いつどこからともなく現れるベトコンに対して、アメリカ兵は恐れおののき戦意を喪失し次第に
軍隊の士気にまで影響したそうです。
有名な言葉で、当時のアメリカ兵の言葉の中に「ベトコンは何処にも見えないが何処にでもいる」
この言葉に代表するように、当時のアメリカ兵の怯えは頑なに想像出来ます。
敵を一撃で殺さず・・・・が、ベトコンの戦法でした。
(クチの地下トンネル観光や、戦争博物館に行くと知る事が出来ます)
また当時の資料によると、窮地に置かれたアメリカ首脳陣は原子爆弾や半径五百メートル以内の
全ての生き物を一瞬にして死滅させるような強力な爆弾の使用まで考えたそうです。
そして、注目を浴びたのが報道管制です、当時のベトナム戦争はジャーナリストの戦闘地域へ
の同行は簡単に許るされたため、多くのジャーナリストが我先にと戦闘地域に入りスクープ映像や
悲惨な光景の写真・記事が世界中にリアルタイムにたれ流しになった事です。
日本人フリージャーナリストも何人か戦闘に巻き込まれ亡くなっています。
当時としては、短期間で終結するものと捉え、今までにない報道管制を戦略として利用しよう
した訳ですが、この報道管制が裏目に出るとは、誰もが予想だにしてなかったでしょう。
それは、戦争の悲惨な状況がリアルタイムに世界に流され、アメリカにとって何の国益なのか
一番は、一般人への被害の拡大と、その悲惨な光景が反戦運動への起爆剤となり、世界中から
反戦運動が活発化しアメリカにとって意味のない 戦争と罵られ、そして、ついにはアメリカの
首脳陣を動かしベトナムの地から撤退せざるを得ない状況を作り出しました。
この泥沼のような戦争を終結に導いた一端を担ったひとつがジャーナリストの力と言えるでしょう。
しかも、戦争終結後そのスクープ写真が証拠となりアメリカ兵が戦争犯罪者として裁かれる事に
なったのも記憶にまだ遠くありません。
当時のジャーナリスト達の犠牲がなかったら、あの泥沼のような戦争から逃げ出す機会を逸して、
世界中を巻き込んでもっと大きな戦争に発展し、現在の世界史を変えた可能性すらありました。
それを思うと、窮地に置かれたアメリカ軍を撤退の機会を作った報道管制の誤算とジャーナリストの
力だったのかも知れません。
当時は短期間で終了するはずだった・・・・・のに・・・・・
イラクでもそうでしたが計画通りには進まないという当時の首脳陣の苛立つ気持が伝わるような
戦争終結を私達は見る事が出来ました。
このように15年間に渡って繰り広げられたのがベトナム戦争です。
アメリカにとっては、敗戦でなく撤退という言葉を使いました。
何故撤退という言葉を用いたかと言えば、反戦運動を起爆にベトナムから撤退を決め南ベトナム
政府に見切りをつけ、南ベトナム軍に全権委譲しながら撤退を進めていたからです。
ところが、南ベトナムの内政は権力争いに終始し小クーデターまで起こし遅々と進まない南ベトナム
政府の安定とは程遠い状態だったようです。
サイゴン市内も南ベトナム政府軍により治安維持がなされてはいましたが民衆を省みない独裁政治
がなされていたようです。
そして、現在もそうですが、ベトナムではテト(旧正月)中には、双方暗黙のうちに休戦をし、つかの間の
休息期間としていました。
しかし、その休戦とアメリカ軍の撤退時期を利用して密かに北軍と解放軍が各地で大攻勢を計画し、
サイゴン市内や空港にも奇襲を掛け最後の賭けに出ました。
これがいわゆる有名な「テト攻勢」であり、辛く長かった戦争に終止符を打つ機会になりました。
不意をつかれた政府軍(南)は窮地に追い込まれたものの、撤退中のアメリカ軍が再度加勢に加わり
北軍・解放軍を壊滅に近い状況まで盛り返しはしたのですが、政府軍に見切りを付けていたアメリカに
とって、もはや撤退中止を止める事とはならず、撤退のスピードを更に上げる事になった訳です。
そして、その年の4月末に再編成した北軍と解放軍が再攻勢を掛け雪崩れを打ってサイゴンに突入し、
統制の取れていない政府軍にはもはや反撃の余力もなく、現在の統一会堂に無血入場に近い状態で、
戦車が入り、屋上に赤い北ベトナム国旗が翻るがえりました。
この時、残務処理に当たっていたアメリカ軍将兵達が、統一会堂の屋上からヘリコプターに我先に乗る
姿がニュースで流された訳です。
もちろん、世界には北ベトナム軍の勝利と報道をされたのです。
現在の、統一会堂に行くとその時最初に入場した戦車と屋上にはヘリコプターが展示されています。
しかし、それは本物ではなくレプリカです。
もしかしたらは、歴史を変える事になりますが、そのままアメリカ軍が駐留し続けたなら「テト攻勢」も
失敗に終わり、まだまだ底の見えない戦争に突き進んだ可能性もあったと思います。
或いは、南北に分断したままで、共産主義と民主主義の独立した二つのベトナム国家が出来た
かも知れません。
また、和平が進まなければ益々泥沼化しソ連・中国を巻き込んで世界大戦にまで発展した可能性も
考えられました。
史実を、たらればで語っても意味のない事で、戦争終結が最善であり、これで良かったのかも知れません。
現在では何事もなかったかのように活気に溢れるホーチミンではありますが、自国民同士の戦いの裏には
まだまだベトナム人の心の傷跡として北と南という色分けされ、現在でも残ってると言うのが本当のようです。
戦争とは勝っても負けても悲惨です。
それは、そこに暮らす人々の心に残る傷跡は長い間消えないからです。
増してや、自国民同士を無理矢理に北と南に色分けされた戦いでは尚更だったと思います。
最後に
戦争とは、映画やドラマのような善人悪人はありません、それぞれに正当な言い分があるから
衝突をするのです。
そして、戦争当時国を取り巻く多くの軍需産業に繁栄をもたらす皮肉な経済効果と、国を一旦
リセットし一から作り直す効果もあると言えば言えるのですが・・・・・
しかし、それにはそこに係わる多くの尊い人民の犠牲の上に成り立つ事も忘れてはなりません。
それが良いとか悪いとかの視点で語るのは、非常に危険であると思います。
これからも我々日本とも、益々友好国となり、共に発展する事を切に願って終わりとします。
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